こんにちは。【ADHD夫を支える妻】はっさくです。
突然ですが、世間では発達障害について語るこんな言葉をよく耳にします。
あの人『発達障害』らしいよ
部下が『アスベルガー』っぽくて
うちの子は『ADHD』だから・・・
『発達障害』の○○ちゃんは・・・
かくいう私も、ブログやSNSで夫のことを発信するときは、便宜上「ADHDの夫が・・・」「ADHD夫」などと表現することがあります。
なぜならこの表現は使い勝手がよく、枕詞のように「発達障害の~」「ADHDの~」と付けることで、同じ悩みを持つ多くの人と繋がることができると考えているからです。
しかし自分で使っておいてなんですが、私はこの表現がどうも好きになれません。というかハッキリいって嫌い。ものすごく抵抗があります。こればかりは一生慣れることはないし、慣れてはいけない感覚だと考えています。
今日のテーマは【「発達障害の○○さん」という目線に全力で抗う】です。
1.【ADHD夫を支える妻】の自己矛盾と葛藤
夫のADHDと向き合う日々の中で、2つの相反する自分を自覚するようになりました。
●夫が「ADHD」だとわかって安堵する自分
●夫を「ADHD」だといわれて傷つく自分
1-1.夫が「ADHD」だとわかって安堵する自分
夫の金銭トラブルに巻き込まれ、夫の苦しみが理解できず、ひたすら彼を責めることしかできなかった日々。
私をここまで悩ませ苦しめる夫は一体何者なのか
彼を理解することに苦しみ、途方に暮れていたからこそ、夫のADHD特性を知ったときは正直ホッとしました。
そうか、夫はADHDだったのか
ストンと腹落ちする感覚といいましょうか、「夫=ADHD」という目線で見るようになると、夫の身の回りで起こる不可解な出来事の原因全てが明らかにされるようでした。
そこには夫の生きづらさのみならず、夫と向き合う私の苦しみの正体までもが、全て集約されている気すらしました。
今までのつらい出来事は夫のせいではなく、夫のADHDによるものだと思うだけで、夫との過去を許せる心の余裕が生まれたのです。
夫という人間の「真実」にまた一歩近づくことができた。夫のことを知るために、ADHDについてもっと学ぼう
夫がADHDであることは、私に妙な安堵と納得感をもたらしました。
1-2.夫を「ADHD」だといわれて傷つく自分
しかし安堵も束の間、すぐに次の不安がやってきました。
夫をよくよく観察すると、彼の性質や苦しみがADHDだけでは説明しきれないということに、すぐに気づいてしまったのです。
※くわしくはこちら↓
事態は思った以上に深刻で・・・自分を守るために「夫にADHDというレッテルを貼ってしまう自分」や、「夫をADHDだと思いたい自分」がいることに気づいたときは、自分が心底嫌になりました。
夫のADHDを知れば知るほど、夫のことがわからなくなるよ・・・
※くわしくはこちら↓
中でも決定的だったのは、ある人に「あなたの夫は障害者だ」といわれたときのこと。
夫のことを知りもしないあなたに、夫の何がわかるのか?
強い反発心とともに、私の心は深く傷きました。
※詳しくはこちら↓
夫がADHDであることに安堵する自分と、夫をADHDだといわれて傷つく自分。
ひどく矛盾していても、そのどちらもが私の本心でした。
2.「診断名」の持つメリットとデメリットを理解する
私の抱える矛盾や葛藤は恥ずかしいことではなくて、ごく自然な感覚ではないでしょうか。
そもそも発達障害の診断名には、相反する2つの側面があります。
【メリット】
その人の言動を理解するための「共通認識」ができる点
【デメリット】
その人に言動の捉え方が画一的になってしまう点
またこんな話もあります。
児童精神科医師で臨床心理士の田中康夫氏は、その著書の中で、発達障害の診断名にまつわる象徴的なエピソードを2つ紹介しています。
1つ目は、自閉スペクトラム症の診断名を受け、我が子への見方が180度変わってしまったお母さんのエピソード。子どもの個性だと愛おしく思っていたものは、全て自閉スペクトラム症の「こだわり」で「治すべき」症状だったのではないか、と思い悩む姿が紹介されています(P229-P231)。
2つ目は、我が子の特性を熱心に勉強するお母さんのエピソード。我が子の言動を教科書的な知識に当てはめるあまり、その子の本当の気持ちが見えなくなってしまう姿が紹介されています(P231-P232)。
その上で、田中氏は診断名についてこのように述べています。
医学の診断名というのは、ある意味で、その子の興味関心すらも「症状化」してしまうことがある・・・(P231)
診断名を出した瞬間に、「この子に近づく」というよりも、「その名称のことを学ぼう」というふうになってしまうこともあり・・・しかし、それだけになってしまうと、その子と育ち合う日々の楽しみが奪われてしまうのではないだろうか・・・(P232)
<参考>田中康夫『「発達障害」だけで子どもを見ないでその子の「不理解」を理解する』SB新書、2019。
田中氏のこの考え方には、ものすごく共感しています。
診断名がもたらす「共通認識」を頼りにしながらも、画一的な見方に陥ることなくその人自身を見続けること。それが何よりも大切なことだと感じています。
3.「発達障害の○○さん」という目線に全力で抗う
発達障害やADHDについては、夫を理解するための大切な指針であり、今後も学び続けていくつもりです。
しかし、これらの見方は夫を知るための指針の1つに過ぎません。同じ診断名がついていても1人ひとりは違う存在であり、発達障害やADHDを知ることと、夫を理解することは必ずしもイコールとはなりません。
だからこそこんなことを思うのです。
「発達障害の○○さん」という目線には全力で抗いたい!
夫のことを「障害者」呼ばわりした彼女への、また、夫のことを今後も「ADHDの夫」「ADHD夫」と発信し続けるであろう自分自身への戒めの意味を込めて・・・
画一的な目線は本質を捉えず、十分注意して向き合うべきだ
そんなことを、これからも繰り返し記事にしたいと考えています。
4.まとめ
今日は、【「発達障害の○○さん」という目線に全力で抗う】というテーマでお届けしました。
発達障害は夫の全てではなく、夫を知るための1つの手がかりであることを、今後とも忘れずにいきたいです。
(^^)/