こんにちは。【ADHD夫を支える妻】はっさくです。
私たちは、互いに発達障害グレーゾーンの凸凹夫婦です。夫はADHD、私はASDの傾向がそれぞれ強いです。
夫と暮らしていると、互いの特性がぶつかり、刺激し合い、その度に新たな気づきがあります。
先日、夫とのやりとりの中で、こんなことを感じずにはいられない場面がありました。
「発達障害の特性には優劣があるのか」
今日はこの疑問について考察します。
発達障害の特性には「優劣」があるのか
発達障害の特性には優劣があるのかー
答えは否。なぜなら特性は、その人の持てる個性のようなものだからです(障害を個性というには語弊があるかもしれませんが、ここでは単に「個体差」という意味です)。
いい個性と悪い個性が存在しないように、特性それ自体に優劣はないし、あってはならない。私自身はそう考えています。
ただ、その特性を持って社会に出たときに、あたかもそこに優劣があるかのように感じてしまう・・・これが発達障害を抱える人のリアルではないでしょうか。
特性の「優劣」を感じるとき
特性の優劣を感じてしまうのは、具体的にどんな場面でしょうか。夫とのやり取りを例に考えてみましょう。
先日、こんなツイートをしました↓
・出したらしまう
— はっさく🍊ADHD夫を支える妻 (@grayzone_family) 2021年5月24日
・こまめに掃除する
・期限を守る
・予定を決めて行動するetc.
それは私の特性上(ASD)そうしたいからそうするのであって、「正しさ」だからではない。
社会的に「あるべき姿」と、それを忠実になぞろうとするASD特有のこだわりとが被ると、私の特性は「常識」に隠れ見えなくなる↓
すると、私のASD特性は「常識」や「正しさ」と名を変えて、それを守らないADHDの夫への攻撃のきっかけとなる。
— はっさく🍊ADHD夫を支える妻 (@grayzone_family) 2021年5月24日
このように、夫婦間の特性による「違い」が、しばしば「常識」の問題にすり変わって見えなくなるのは問題だな💦#ADHD #ASD #発達障害 #凸凹夫婦
常識やルールをなぞることを好む私のASD特性と、そこから外れてしまいがちな夫のADHD特性。私たちの間に存在するのは、単なる特性の違いであり、優劣ではありません。
しかしここに、常識という社会的な目線が入ることで、「きっちりした妻」と「だらしのない夫」というレッテルが生まれます。
これにより、単なる違いだったはずのものが、「優れた特性」「劣った特性」というように、特性の優劣として認識されるようになるのです。
夫婦間ですらそうなのだから、社会に一歩飛び出せば、その感覚はさらに強まるんだろうな・・・
特性の「優劣」は何で決まるのか
特性の優劣を決める要因、それは、特性と社会的常識との距離感ではないでしょうか。
悲しいことに、特性と社会的常識との距離が遠ければ遠いほど、その特性はより目立ち、社会からは「劣っている」「直すべき」と見なされてしまうことがあります(希に逆もありますが)。
当然その場合は、本人の生きづらさや困り感も、より強くなる傾向にあります。
例えば、私のASD特性で考えたとき、
・きっちりとした性格でADHD夫のミスをカバーできる私(優)
・融通が効きにくく些細なことでパニックになってしまう私(劣)
これらはどちらも私の表裏一体の特性で、私という個性です。
しかし社会的な目線に立つと、後者の方を強く否定したい気持ちになるし、実際に何度も否定されてきたように感じます。「きっちりとした性格」は何かと社会で重宝される反面、「融通の利きにくさ」は喜んで受け入れられるものではないからです。
当然、私自身の困り感や生きづらさも、後者の方に紐付いています。
どちらの私も私なのに・・・自分自身が引き裂かれるようでつらい
同様に、夫のADHD特性を考えたとき、
・融通が利きやすくフットワークが軽い夫(優)
・ケアレスミスが多くルーズな夫(劣)
これらはどちらも夫の表裏一体の特性ですが、社会の中で「障害」として問題にされるのは、主に後者の側面です。
「できないこと」が際立つことで、「できること」が見えにくくなるよ
そもそも発達障害の診断は、当事者の生きづらさや困り感があってこそのものです。
特性があっても、社会的常識との齟齬があまりない場合や、むしろそれが「優れた個性」と見なされる場合は、本人の生きづらさの原因にはならず、発達障害の診断は必要がなくなります。
発達障害という概念はそもそも、こうした社会的常識を背景にした「優劣」を前提に成り立っています。その意味でも、発達障害はとても社会的な概念であるといえますね。
特性とどう向き合うべきなのか
これらを踏まえ、私たちは特性とどう向き合うべきなのか。
大切なのは、社会的な目線に惑わされることなく、全ての特性をフラットな目線で受け入れることだと考えています。
例えば私のことは、「きっちりとした性格の私」も、「融通の利きにくい私」も、その全てを私自身として受け入れたいし、受け入れてほしいと感じています。
また夫のことは、「フットワークの軽い夫」も、「ケアレスミスの多い夫」も、その全てを等身大の夫として受け入れられたらと感じています。
「普通」や「常識」などの社会的目線を意識しすぎると、自分の悪い特性ばかりが目につくようになります。
すると、特性による生きづらさがより強調されて、「普通とは違う自分」に自信が持てなくなってしまうため注意が必要です。
発達障害の特性を優劣で見るのではなく、その全てを自分自身(夫自身)としてフラットに見られたらいいなぁ!
まとめ
今日は、【発達障害の特性には「優劣」があるのか】というテーマでお届けしました。
そもそも、発達障害の特性はあくまで自分や他者を理解するひとつの手段であって、その人の全てを示すものではありません。
発達障害の特性と、社会的な目線の中で生まれる優劣・・・それらにあまり翻弄されることなく、「私は私なんだ」と、自信を持って生きていきたいですね。
(^^)/
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