こんにちは。【ADHD夫を支える妻】はっさくです。
ちょっとASDでHSPな私の心の闇を語るシリーズ
【私と愛着】第8回。
今日は、「私は誰のために生まれてきたのか」というテーマでお届けします。
※私と愛着⑦はこちら↓
息子の誕生日に母からもらった言葉
数ヶ月前、息子が3歳の誕生日を迎えました。
母はその日、孫の誕生日を祝うと同時に、私への激励のメッセージをくれました。
「お母さんお疲れ様」から始まるメッセージに心温まりつつ、最後の言葉が尾をひくように、私の心に影を落としていきました。
”子どもはいつも、自分に欠けたものを教えてくれる。
子どもは大人が成長するために存在してくれていると思う。
はっさくちゃんも、お母さんの成長のために存在してくれたね。
ありがとう”
私は誰のために生まれてきたのか
母は、普段からよくこんな言葉を口にします。
”子どもは親を救うためにこの世に生まれてきたくれた”
私も人の親。親の立場から我が子に対してそう思いたい気持ちは痛いほどわかります。
我が子の存在がこれほどまでに自分を成長させてくれるものだったとは・・・
私自身、子どもを産んでから、それを考えない日はありません。
我が子は私を困らせ、楽しませ、悲しませ、幸福にし・・・
そして私を母にし、人間的に成長させてくれる存在です。
しかし親子というのは複雑です。
先ほどの言葉を母の口から聞くと、私は途端に冷静ではいられなくなってしまいます。
私は、誰のために生まれてきたのだろう。
私は、母のために生まれてきたのだろうか。
そんな疑問がグルグルと頭の中を巡ります。
子どもは親を選んで生まれてくるのか
もうひとつ、最近の母は、ことあるごとにこんなフレーズを口にします。
”子どもは親を選んで生まれてきてくれる”
私はこの考え方があまり好きではありません。
もちろん私は、私の両親の元に生まれてよかったと、心から思っています。
でも、生命の誕生はいつだって偶然。子どもが親を選べるはずなんてありません。
(被虐待児は、虐待する親の元へ好き好んでいくわけがないのだから)
30代になって強く思うのは、こんなことです。
私は、母のために生まれてきたわけではない。
私は、私の人生ために生まれてきたのだ。
そろそろ母の呪縛から逃れて、自分の人生を歩みたいと思っています。
親はいつだって我が子に自分自身を投影する
私は母を決して憎んではいません。
それどころか、私を産み懸命に育ててくれたことに、ひたすら感謝しています。
母も、そして私自身もそうであるように、親というものは、いつだって我が子に自分自身を投影するもの。
でも、それはあくまで親の人生であって、それが子どもの人生であってはならない。
我が子には、私たち親の人生を背負ってほしくない。
だからこそ、私も夫も、決して息子の人生に寄りかからず、しっかり自分自身の足で立って生きる必要があると考えています。
(^^)/
P.S. 母の存在もまた、私に多くの気づきを与えてくれています。お母さん、いつもありがとう!
※私と愛着⑨はこちら↓