こんにちは!【ADHD夫を支える妻】はっさくです。
今日のテーマは【普通】。
ちょっとASDでHSPの私、以前こんなことを書きました。
「普通だ」と言われて動揺する
「はっさくは『普通』だよ」
昨日夫に唐突にそう言われました。
どういうこと?
夫はこう続けます。
「自分を『普通じゃない』って卑下する必要はないよ。コンプレックスがたくさんあるかもしれないけど、はっさくの中には誰もが持っているごく『普通』の感覚や感情がたくさんあるよ。俺ははっさくが変だとは思ったことがない」
取り乱すと人の感情が読めなくなる私。人の感情よりも自分の感情を優先してしまい、そのことで夫をよく傷つけてしまいます。
昨日も私が些細なことで取り乱してしまって・・・
こんなにも取り乱した後なのに、夫は私にこんな言葉をかけてくれました。
「はっさくは、たしかに自分のことになるとカッとなるところがあるけど・・・人の気持ちがわからないわけじゃない。むしろ冷静なときのはっさくは、人を見る目が鋭いし、そういうところに人一倍長けている人だと思う」
夫は私を励ましてくれたのかな。
それでも私は、夫の言葉に動揺してしまったのです。
「普通じゃない」ことが多すぎた
「自分は普通じゃない」
幼い頃から周りに言われ続けてきたからか、自分を卑下し続けてきたからかはわかりませんが、周りと比べて「普通じゃない」ことが多すぎると感じてきました。
そしてその「普通じゃない」という感覚が自尊心を下げ続けてきました。
私は「普通」を渇望し、「普通」になりたいと思っていました。
それなら「はっさくは普通だ」といわれて嬉しいはずなのに・・・
私の中には「普通になりたい自分」と「普通じゃないことに逃げている自分」、その両方がいるようです。
「普通」という隠れ蓑に逃げ込みたくなる感覚
「私はどうせ普通じゃないんだ」
そんな感覚になることで、物事の本質と向き合わずに済んでしまうことがあります。
私はこれを「『普通』という隠れ蓑に逃げ込む」と呼んでいます。
昨日激しく取り乱した私に対して、夫は「それでもはっさくは『普通』だ」と言ってくれました。
そのときの動揺、言葉にするとこんな感じです。
こんなに取り乱してしまう私が『普通』?
私がしんどいのは『普通じゃない』からではないの?
私が『普通』だとしたら、私が今まで抱えてきた生きづらさは何だったの?
しんどくなったときに「普通」という隠れ蓑に逃げ込めば楽になります。
自分はASDの特性があるから、自分はHSPだから……
そうやって全て、自分が「普通じゃない」ことのせいにしてしまえば、悲劇の主人公になれるからです。
昨日の夫の言葉は、そんな私に対する厳しい励ましだったのかもしれません。
「普通じゃない」という言葉に逃げるな。
自分を卑下していたら何も始まらない。
自分自身の本質に目を向けて初めて「生きづらさ」は解消されるんだよ。
「普通」とか「普通じゃない」とかじゃなくて
こんな感じで、気づいたらいつも「普通」に振り回されている私たち。
本当は「普通」に縛られずに生きていきたいです。
「普通」か「普通じゃないか」で物事を見るのは本当に楽。
理解できないこと、見たくないこと、納得できないことは全て「普通じゃない」ってことにしておけばいい。
・・・
しかしこれは、一種の「逃げ」にすぎないと感じます。
「普通」という隠れ蓑に逃げ込まず、面倒くさい自分たちとしっかり向き合うこと。
それが、自己理解・他者理解の一番の近道となると考えています。
(↑過去記事より引用)
※詳しくはこちら↓
「普通」か「普通じゃないか」の二元論ではなく、自分自身(または他者)のありのままの姿を素直に受け入れる勇気を持ちたいです。
おしまい。