こんばんは!はっさくです(*´`)
昨日ブログで、ADHDの夫が銀行の窓口で何気ない一言に傷ついた話を書きました。
昨日はそのことで一日中モヤモヤしてしまいました。
今日はそれをちょっと吐き出させてください。
見えない障害と生きる
夫の困り感は、”普通”の人にはなかなか伝わらない。
悲しいけど、世の中には発達障害への理解のある人ばかりではないし、社会は決して優しくはない。
夫は前職で、発達障害をきっかけに仕事を辞めています。
上司はそれなりに話を聞いてくれたけど、それはただの優しい”ふり”。
どれだけ言葉を尽くしても、本当の意味で理解なんかしてくれなかった。
一昨日の銀行の窓口の人と同じ、何気ない言葉で夫をたくさん傷つけた。
夫は大人なのにたくさん泣いた。
私も一緒にたくさん泣いた。
あなたと私を隔てるものなんてない。
そう思いたいのに、問題が顕在化した瞬間に、そこには永遠に越えられない見えない壁があるのだとわかる。
見えない障害を抱えて生きるということは、こうした厳しい現実を日々突きつけられるということなのかもしれません。
社会は優しくはないけど
夫は言います。
「人は理解してくれないものだと思っていた方が傷つかない」と。
誰にも期待しない。弱みを見せたら負け。
でもそれってなんかさみしいよね。
発達障害は目に見えないから、たしかに周囲に理解されないことの方が多いです。
でもそれを相手の理解力の問題にしてしまうのは簡単。
理解してくれない相手のせいにして、意固地になって、
「どうせ私なんか価値のない人間だ」と嘆く。
でもそれだと社会は変わらないと思うのです。
理解してくれないと嘆くより、人に影響力を与えるくらいに自分がまずは行動する。
社会を変えるにはそれしかないんじゃないかと。
例えば、
お年寄りや妊婦さんに席を譲るとか、
子どもに優しくするとか、
性的マイノリティの人への目線とか、
困り感を抱えた人へのちょっとした配慮とか・・・
そういった当たり前を、空気を吸うかのように、まずはサラッとできる人になる。
そういう人になりたいものです。
自分が行動する姿を見て、街ゆく人が、子どもたちが、そこに何かを感じてくれたら、それだけでも社会はよくなる。
昨日より、今日より、明日が少しだけ優しい社会になるように。
そんなことを昨夜夫と話していたのです。
おしまい。