グレーゾーンなわたしたち

【ADHD夫を支える妻】はっさくのブログ。発達障害、HSP、メンタルトレーニング、教育に関するあれこれを発信中!

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「グレーゾーン」のつぶやき~「発達障害」と「普通」の狭間で

こんにちは。はっさくです!
 
私たちは発達障害グレーゾーンの凸凹夫婦。夫はADHD、私はASDの傾向があります。
今回はグレーゾーンならではの悩みを言葉にしてみようと思います。

「グレーゾーン」とは?

 
最近、グレーゾーンという言葉をよく耳にします。「グレーゾーン」とは、「白でもなく黒でもない曖昧な状態」を指します。
発達障害の傾向はあるし、それによる「生きづらさ」も抱えているけど、医療機関に行ってもはっきり「発達障害」と診断されるわけではない。夫や私はまさにそんな状態です。

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夫は物忘れやうっかりミスが多いです。特にお金の手続きが苦手でと必ずといっていいほどミスをします。それはADHDの特性と共通する部分が多く、医療機関を受診しましたが結果は「グレー」。「ADHDの傾向が強い」とはいわれましたが、はっきりとした診断はされませんでした(夫が診断を望んでいなかったこともあります)
 
一方私は、幼少期からこだわりが強くASDの傾向がかなり強かったのですが、家族の支えもあり、社会生活の中で折り合いをつける術を身につけました。診断を受けたことはありませんが、大人になった今でもASDの傾向があると自覚しています。
 

私たちは何者なのか?

 
そんなグレーゾーンな夫と私。ブログなどで自分たちのことを説明するときは便宜上ADHDやASDと表記していますが、厳密には違うかもしれません。なぜなら、典型的なADHDやASDの特性は自分に強く当てはまる部分もあればそうでない部分もあり、「自分はADHDだ」「自分はASDだ」とはっきりいいきれないからです。
事実、純粋なADHDやASDの人はほとんどおらず、両者が重複している場合が多いそう。臨床の現場でも発達障害の正確な診断は難しいようです。
 
精神科医・医学博士の本田秀夫さんは、障害とは断定できるほどの明らかな支障はないが、発達特性がある状態のことを「ADH」や「AS」と表現しています。これはADHDやASDの最後の「D(Disorder、障害)」をとったものです*1。この表現を借りると、発達障害とはっきり診断されていない私たちは「ちょっとADHな人」や「ちょっとASな人」ということになるのでしょうか。もっといえば、環境や心身の状態により「D」がついたりつかなかったりする、というのが正しいかもしれません。
 
このようにあれこれ考えてみるものの、「普通」でもなく「障害」でもない宙ぶらりんな状態はどうにも表現するのが難しい。
 
私たちはいったい何者なのか・・・
明確な答えは出ないまま「生きづらさ」だけが続いていくのです。 
 

グレーゾーンの「生きづらさ」

 
たしかに重度の発達障害の人に比べたら、グレーゾーンの症状は軽いのかもしれません。しかしだからといって「生きづらさ」が軽いかというと決してそうではありません。そこにはグレーゾーンならではの「生きづらさ」があるのです。
 

①名前のない「生きづらさ」

私や夫の一番の悩みは、自分たちの「困り感」や「生きづらさ」の原因がよくわからないことです。
 
仮に夫が「ADHDですね」とはっきり診断されていたらショックを受けるかもしれません。しかし同時に「この生きづらさはADHDのせいなんだ」と思えるかもしれません。「発達障害という言葉に甘んじる」ことは逃げなのかもしれませんが、私たちグレーゾーンにはこうした「逃げ場」がどこにもない。そのことがとても辛いです。
 
さらに、グレーゾーンの私たちは特性由来の「困り感」を感じたときに、発達障害と診断されている人や定型発達の人と自分を比べてしまいます。
 
「発達障害と診断された人はもっとしんどいのだから」
 
「自分が他の人と同じようにできないのは自分のがんばりが足りないからだ」
 
「しんどいな」「生きづらいな」「助けてほしいな」と思っていても、その感情を自分たちが口にするのはおかしいのではないかと思い、1人で抱え込んでしまうのです。
 

②社会的に理解されにくい

 
グレーゾーンの私たちは、自分のことを周囲に理解してほしいと思っても、自分を的確に説明する言葉がありません。また、近年は徐々に発達障害への理解が進んではいますが、グレーゾーンの存在については理解されにくいように感じます。
 
お金の管理が苦手な夫。家庭でのクレジットカードの返済の遅れや借金のことが会社にばれてしまい、会社を退職することになりました。そのとき上司にいわれた一言が今でも忘れられません。
 
夫は勇気を出して「ADHDのグレーゾーンである」と上司に打ち明けました。しかしそこでいわれたのはこんな言葉でした。
 
「わかる。けどそういうのは好きじゃない」
 
「君に大きな仕事は任せられない」
 
仕事では大きなミスひとつせず、社内成績も良かった夫。その勤勉性を上司から期待されていました。きっと真面目な夫のことだから、本当の自分を見せまいと必死にもがいていたことと思います。そこには見えない努力があったのに、一度のミスで(それも社内ではなく家庭の問題で)社会的信用はすぐに失われてしまいます。
 
発達障害グレーゾーンの私たちは、劣等感や周囲から浮いてしまうかもという恐怖と常に隣り合わせです。いっそ自分の特性を開き直って捉えることができれば楽なのでしょうが、それがなかなか難しい…。
だから夫のように、周囲の環境に「過剰適応」することで本当の自分を隠しながら生きている人も多いのです。
 

③専門機関にアクセスしづらい

 
グレーゾーンの私たちは、悩んでいても専門機関にアクセスしづらいです。そこには物理的ハードルだけでなく、精神的ハードルも存在します。
 
「普通」と「発達障害」の境界にいる私たちは、しんどいことでも「がんばればできる」ことが多いです。なので「困り感」を抱えていたとしても、こんなことで専門機関にかかったり誰かに相談したりするのは甘えているのではないか、と躊躇してしまうのです。
 
夫のADHDを誰にも相談できずにいた私は、自治体に発達障害の相談窓口があることを知りました。しかしHPを見ると、「発達障害の当事者や家族の方対象」の一言。当時の夫は医療機関を受診していなかったので、「発達障害かもしれないけどそうじゃないかもしれない」状態でした。そんな夫やその家族である私の話など、誰も取り合ってくれないのではないか・・・と悶々と考え込んでしまったことを覚えています。
 
後日、私は勇気を出して電話相談を利用してみました。しかし、電話口で一言目に「診断名は何ですか?」といわれ言葉に詰まってしまいました(相談には乗ってくれました)。
 
また、夫が勇気を出して医療機関を受診したときも、「ADHDの傾向がありますね」とあっさり。説明はわかりやすかったけど、夫や私のしんどさに寄り添ってもらえてる感じはあまりしませんでした。
 
具体的に何に困っていて、どうしたらそれを解消することができるのか・・・そういうことを気軽に相談できる窓口は、私たちグレーゾーンには存在しないのかもしれません。
 

グレーゾーンの私たちが求めること

 
香山リカさんはその著書の中で、『「発達障害」と言いたがる人たちの存在』について論じています。発達障害の可能性は低いにもかかわらず『「発達障害」である自分』という強烈な個性がほしい人たちがいて、そういった人たちが診断ほしさにドクターショッピングを繰り返す・・・こういった現象が近年社会問題になっている、と彼女は考えています。*2
 
夫や私は「発達障害」という強烈な個性がほしいわけではありません。診断名がほしいからドクターショッピングを繰り返す、ということもしません。
 
最近私たちが考えていることは、「グレーゾーン」は「グレーゾーン」として置いておく、そこにあえて名前をつける必要はないということ。それが私たちの実体に最も近いからです。
 
「普通」と「発達障害」の境界はとても曖昧です。ADHDと診断されようがされまいが、夫は夫。何かが変わるわけではないのです。
  
私たちは強烈な個性も診断名もいりません。
 
困り感」に常に寄り添い解決法を一緒に考えてくれるよき理解者がほしいのです。
 
また、しんどいときに「しんどい」といっても許される場所がほしいのです。
 
診断名に関係なく、特性による「困り感」を持っている全ての人が、孤立せずに誰かと繋がれる世の中になったらいいなぁと思っています。
 
おしまい!

*1:本田秀夫著『発達障害 生きづらさを抱える少数派の「種族」たち』SB新書、2018(p36)。なお本田さんが本書の中で扱っているのは、ADHとASの特性が重複している『「ちょっとAS(自閉スペクトラム)」で「ちょっとADH(注意欠陥・多動)」な人たち』です。

*2:香山リカ著『「発達障害」と言いたがる人たち』SB新書、2018。